伊勢崎競馬場と石川泰三町長
当時の石川泰三伊勢崎町長が4万都市伊勢崎大構想のひとつとして茂呂村と宮郷村境にあった広瀬川沿い(現:伊勢崎市新栄町)に競馬場と崎競技場を建設しました。これを1930(昭5)年に群馬県畜産組合連合会が借り上げ伊勢崎競馬が開催されます。一周1000mの馬場の内側には、人の競走用の400mトラックがあり県下の各種大会もここで行われたそうです。広瀬川に架かる「競運橋」という名の橋のもと、多くの人々の憩いの場所でした。しかし戦争の足音が聞こえるようになり馬は軍馬としてされるようになります。そして1938(昭13)年の競馬開催を最後とし1939(昭14)年軍馬資源保護法公布に伴い伊勢崎競馬場は廃止に至ります。この競馬場、今は県営住宅や一般住宅が立ち並ぶ住宅地になっています。冒頭の図のように道路の形状には当時の面影が残っていますが、当時を思い起こすものはありません。
石川泰三は大正4年(1915)62歳から昭和7年(1932)80歳まで18年間にわたり伊勢崎町長として活躍した人です。町立伊勢崎実科高等女学校(現 県立伊勢崎清明高)設立、町立商工補習学校(現 県立伊勢崎商業高等学校)設立、佐波郡立佐波農業学校 (現 県立伊勢崎興陽高等学校)設立、六間道路開通、新開橋の完成、県道伊勢崎前橋線の開通、 桐生新道(県道)開通など、多くの業績を残しています。また、現在の市章や、広報いせさきもこの時代です。また、民生委員を群馬県で初めて設置したのも石川泰三でした。石川泰三の人柄を思わせるエピソードを紹介しておきます。大正14年(1925)石川泰三町長に茂呂村の有志が「村は水不足で町用水を回して欲しい」と要望します。石川泰三町長は「町用水は一滴も差し上げられぬ」と断わります。しかし石川泰三町長は、担当者に対して「直ぐに町用水を茂呂村に回すように」と指示します。「要求に依(よ)って通水すれば先方の権利となる、慣例ともなる、それを断って置いて開けるのは当方の都合である・・・後に禍根を残さない」道理を重んじ政治力にたけた人物だったようです。
嘉永6年(1853)12月26日~昭和18年(1943)12月22日 享年91歳
2021年現在 生誕168年 没後78年
石川泰三
市役所北門のロータリー東側脇にやや高い石川泰三の石像が建っています。