ヤマメの塩焼き
前にも書きましたが、私の父は旧国鉄です。父の勤めていた駅は温泉町、国鉄においては重要な駅でした。ご存知の通り昭和40年代までは高崎線でも蒸気機関車が走っていました。水上駅は昭和3年に開設されています。昭和6年清水トンネルが開通し越後湯沢とつながりますが、この区間は最初から電化されていて、蒸気機関車は走っていません。そのため、この駅には町の規模に似合わない鉄道施設が建設されました。水上駅まで蒸気機関車で来て、そこで、電車に切り替えるためです。駅員のほか、機関区、保線区などがあり多くの国鉄職員がいて、国鉄職員の中から2人、町会議員を出すことができるほど、たくさんの職員が働いていました。職員の住宅もたくさんあって、上の官舎、下の官舎、などとよばれ、200世帯ほどあったようです。
父は操車係なるものに携わっていました。列車の連結の際に誘導などを行う仕事です。大変危険な仕事で、誤って転倒すると、列車に巻き込まれ命を落とすこともあります。今は、労災として補償される人身事故も4カ月分の給与の支給しかなかったそうで、悲惨な労働環境だったようです。
父は24時間勤務して一日休む、そんな勤務形態で、食事は駅の職員の詰め所でとっていました。夕食はいつも弁当で、それを運ぶのは子供の仕事です。母が作った弁当を山盛りのご飯とおかずを風呂敷で包み運ぶのです。駅まで約10分ほどあるき、勝手に駅の中に入り線路伝いに詰め所まで行きます。今は駅の中など厳重で入ることはできませんが、おおらかな時代でした。ある冬の日のこと、父は詰所のストーブで何やら焼いています。それは昨日私がとってきたというか、拾ってきたというか、川の工事でダイナマイトが使われ、失神して岸に打ち上げられた大きなヤマメでした。たぶん40センチはあったと思いますが、にこにこしながら焼いています。その日の弁当にはおかずは付いていません。母からは「おかずはいらないと、とーちゃんが言ってた」と言われましたので、合点がいきました。後で聞きましたが、父は朝からそのヤマメを遠火で焼いていたそうで、何時間もかけて焼いたヤマメは大層美味だったようです。何年たっても、なんどでも「あのときのヤマメが一番うまかった」そう語るのでした。
でも、この令和になって、勤務中に何時間も魚を焼いていたら、どんなことになるのでしょう?
おいしそうなヤマメの塩焼き
でも、ヤマメの目がうらめしそう・・・