上野駅

昔の改札、駅員さんが切符を切っていたころ

今、高崎線で群馬から東京方面には、東京駅経由、池袋渋谷経由といくつかのルートが湘南方面までつながっています。それまでは、池袋方面には赤羽で乗り換え、東京駅、品川方面には終点上野で乗り換えとなっていました。上野駅は1883年日本鉄道の駅として開業し群馬、新潟、東北方面などの玄関口として機能してきました。

上野駅を舞台にしたものとして、石川啄木の短歌があります。

ふるさとのなまりなつかし
停車場の人ごみの中に
そを聞きにゆく

〈現代語訳〉

故郷の訛りが懐かしい、停車場の人ごみのなかに、その訛りを聞きにゆく

石川啄木は、本名石川はじめと言い、明治19年(1886年)、岩手県に生まれた夭折の歌人です。

1906年、故郷の渋民村で代用教員となりますが、翌年には北海道に移り、職を転々と変えたあと、再び上京。1910年、歌集『一握の砂』を発表します。

この「ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聞きにゆく」という短歌も、『一握の砂』に入っている、石川啄木の望郷の思いを詠んだ代表作です。

停車場とは駅を意味し、懐かしい故郷の訛りである東北弁を求め、駅の人ごみのなかにそれ(「そ」は「それ」を意味する)を聞きにゆく、という歌です。

石川啄木が詠んだ頃と同じように、いまだ昭和40年代の上野駅は、上信越、東北などの各地から出てきたと、一目でわかる人たちであふれていました。薄暗く、また、清潔感もなく、独特の風情を持っていました。

以前にも書きましたが、私は大学受験に失敗しています。その年の4月、私は翌年の受験を目指して情報収集のため上野駅にいました。そのいでたちは当時はやっていた長髪にラッパのジーンズ、短いジャンパーといったものです。まだ、ユニクロといったような安価で揃えられるファッションもなく、沼田の「いせや」、いまのベイシアで買った安物の洋服をまとっていました。今思い起こしてみても、形と言い、色合いと言い浮浪者に近いものだったようです。特にろくに手入れしていない長髪は、まさに浮浪者そのもの・・・本人にその意識がなかったのが、今思うと余計に惨めです。

上野駅に降り立った私は乗り換えのために地下鉄の駅を探します。今のようにスマホもありませんから、もっぱら案内板頼り・・・案の定迷います。

中央改札口・不忍口・入谷口・公園口etc・・・入口をさまよいますが、どの入り口でも必ず声を掛けられます。中年のおじさんでレインコートを着て、傘を持って・・・同じいでたち。「自衛隊にはいりませんか?」そのころ自衛隊は人手不足だったようで、無職と思われる若い人を狙って、道端で声をかけていました。

結局その日は8回自衛隊の勧誘を受けます。中には「ご飯食べているの?おなか減っていない?かつ丼食べない?」まるで浮浪者扱いです。

さすがに最後のほうは「いい加減にしてくれ!俺は学校を探しているんだ!」大きな声で叫びました。

最近も自衛隊入隊志願者が少ないので、勧誘は大変だと聞きます。いくらなんでも知らない人にいきなり話かけることはないようです。自衛隊に興味がある。もしくは入隊を希望している人がいるという情報を色々な所から集めて、自衛隊地方協力本部という募集や広報を担当している部署から自衛官が直接本人や家族に説明にいくという形をとっていると聞いています。

今でも、上野駅で「自衛隊に入りませんか?」やっているんでしょうか?

昭和49年、上野駅での一こまでした