心に残る古い歌その1 真白き富士の嶺


この歌は、逗子開成中学校の生徒12人を乗せたボートが転覆、全員死亡した事件を歌った歌謡曲です。

聞きやすい動画を選んでみました。まずは聞いてみてください。

逗子開成中学校には次の記述があります。

ボート遭難事故[編集]

「改名翌年の1910年1月23日、休日に無断で学校所有のボートを海に出した生徒ら12人が七里ヶ浜沖で遭難し、全員死亡する事故が発生した。この事故の補償のため、当時経営母体が同一であった鎌倉女学院が所有地の売却などをした。のちに同校教諭の三角錫子の作詞で鎮魂歌として「真白き富士の根」が作られ、遭難地点に近い稲村ヶ崎に慰霊碑を建立した。事故により引責辞任させられたボート部部長の息子である宮内寒弥は、事件をもとにした小説『七里ヶ浜』を1978年に発表し、平林たい子文学賞を受賞。遭難生徒たちは不良で鳥撃ちのためにボートを出しており、その中には三角教諭の愛人生徒もいたと書いたため、再び同事故に衆目が集まった。」

真白き富士の嶺1

すなわち、本曲の作詞者である当時37歳女教師の愛人だった生徒が含まれていたとの記述があるのです。

私は子供を失った親の心情をうたったものと思ってましたが、真相は違ったようで、それを知って再度聞いてみると歌詞の意味がまた違ったものになってきました。

また犠牲者の生徒は不良だったようです。鳥撃ちのために海にボートを出したも言われています。

真白き富士の根 – Wikipediaでは次のように記載されてます

真白き富士の根(ましろきふじのね)は、逗子開成中学校の生徒12人を乗せたボートが転覆、全員死亡した事件を歌った歌謡曲である。「真白き富士の嶺」、「七里ヶ浜の哀歌」 とも呼ばれる。1935年、1954年にはこの事件を題材にした同名の映画にもなった。

成立年: 1910年(明治43年)
作詞者: 三角錫子(みすみ・すずこ、1872年-1921年)作詞当時、系列校である鎌倉女学校(現・鎌倉女学院)の教師だった。
東京都目黒区にあるトキワ松学園中学校・高等学校の設立者でもある。
作曲者: ジェレマイア・インガルス(後述)
「七里ヶ浜の哀歌」 の方が原題に近いが、一般には、歌い出しの歌詞から 「真白き富士の根(嶺)」 と呼ばれた。

真白き富士の根 – Wikipediaより

また本曲は作曲者がアメリカ人のジェレマイア・インガルス氏ですでに明治唱歌に日本版オリジナル歌詞の歌がすでに出回っていて上記の海難事故の後に犠牲者を弔う目的で同じメロディーで替え歌を三角氏が創作した。日本国内においては、同曲は 1890年(明治23年)刊行の『明治唱歌』において、『夢の外(ゆめのほか)』(大和田建樹作詞)として採用された。三角錫子はこの唱歌の替え歌として『七里ヶ浜の哀歌』を作詞したのである。『夢の外』の2番、『七里ヶ浜の哀歌』の4番の歌詞については、共にキリスト教の影響が指摘されている。『七里ヶ浜の哀歌』 5番の「悲しさ余りて 寝られぬ枕に」は、『夢の外』 3番の「うれしさあまりて ねられぬ枕に」がヒントとなっている。

真白き富士の嶺2

メロディーも原曲がアメリカにあり日本語歌詞もすでに存在していたようです。

作詞者に沿ってみれば、若い恋人を失った悲しみの歌ですが、思えば、いまから112年前にできた歌です。歌の本当の意味とは別に年月を経て熟成された重みをもつことになったと私は思ってます。

何かと、仕事をしながらこの歌を口ずさむ今日この頃です。

歌詞の全文です

真白き富士の嶺、緑の江の島

仰ぎ見るも、今は涙

歸らぬ十二の雄々しきみたまに

捧げまつる、胸と心


ボートは沈みぬ、千尋(ちひろ)の海原(うなばら)

風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に

力も尽き果て、呼ぶ名は父母

恨みは深し、七里ヶ浜辺


み雪は咽びぬ、風さえ騒ぎて

月も星も、影を潜め

みたまよ何処に迷いておわすか

歸れ早く、母の胸に


みそらにかがやく、朝日のみ光

暗(やみ)に沈む、親の心

黄金(こがね)も宝も、何にし集めん

神よ早く、我も召せよ。


雲間に昇りし、昨日の月影

今は見えぬ、人の姿

悲しさあまりて、寝られぬ枕に

響く波の、音も高し


帰らぬ浪路に、友呼ぶ千鳥に

我も恋し、失(う)せし人よ

尽きせぬ恨みに、泣くねは共々

今日も明日も、かくてとわに