心に残る古い歌その2 琵琶湖周航の歌
琵琶湖周航の歌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ナビゲーションに移動検索に移動
琵琶湖周航の歌(びわこしゅうこうのうた)は、日本の学生歌の一つで、琵琶湖および周辺地域を題材とした、滋賀県のご当地ソング(cf.)の一つ。1917年(大正6年)6月28日成立(作詞:小口太郎、作曲:吉田千秋)。
目次
概要[編集]
琵琶湖を中心とした滋賀県の風景が歌われる曲である。歌詞は全6番からなり、拍子は8分の6拍子である。
この曲は1917年(大正6年)6月28日、第三高等学校(三高。現在の京都大学)ボート部の部員による恒例の琵琶湖周航の途中、部員の小口太郎による詞を「ひつじぐさ」(作曲:吉田千秋)のメロディーに乗せて初めて歌われた。その後この歌は、三高の寮歌・学生歌として伝えられた。
1933年(昭和8年)に最初のレコーディングが行われた。第二次世界大戦後、多くの歌手によって歌われたが、特に1971年(昭和46年)に加藤登紀子がカヴァーしたレコードは大ヒットを記録した。
歌の舞台となった琵琶湖畔には、複数の歌碑が立っている。歌の「誕生の地」とされる滋賀県高島市今津町には琵琶湖周航の歌資料館がある。
歌詞[編集]
- われは湖(うみ)の子 さすらいの
旅にしあれば しみじみと
昇る狭霧(さぎり)や さざなみの
志賀の都よ いざさらば - 松は緑に 砂白き
雄松(おまつ)が里の 乙女子は
赤い椿の 森陰に
はかない恋に 泣くとかや - 波のまにまに 漂(ただよ)えば
赤い泊火(とまりび)懐かしみ
行方定めぬ 波枕
今日は今津か 長浜か - 瑠璃(るり)の花園 珊瑚(さんご)の宮
古い伝えの 竹生島(ちくぶじま)
仏の御手(みて)に 抱(いだ)かれて
眠れ乙女子 やすらけく - 矢の根は深く 埋(うず)もれて
夏草繁(しげ)き 堀の跡
古城にひとり 佇(たたず)めば
比良(ひら)も伊吹も 夢のごと - 西国十番 長命寺
汚(けが)れの現世(うつしよ)遠く去りて
黄金(こがね)の波に いざ漕(こ)がん
語れ我が友 熱き心
歴史[編集]
三高ボート部の琵琶湖周航[編集]
第三高等学校に水上部(のちのボート部)が設立されたのは1892年(明治25年)のことである[1]。部員による琵琶湖一周の漕艇は、創部の翌年1893年(明治26年)に初めて行われた[2][3][4]。漕手6人舵手1人からなるフィックス艇に乗り[2][3]、艇庫[3]のある三保が崎(大津市)から時計周りに琵琶湖を一周するというもので、3泊ないしは4泊程度の旅程で[2][1](2泊という強行スケジュールが組まれたこともある[3])行われた。この周航は、1940年(昭和15年)頃まで行われていた[2]。
「琵琶湖周航の歌」の誕生[編集]
小口太郎は、1916年(大正5年)に三高予科第二部乙類に入学。水上部に入部した。小口は1917年(大正6年)6月の周航中にこの歌詞を思いついたとされ[2]、周航2日目の6月28日夜、今津(現:滋賀県高島市今津町)の宿で披露された[2]。なお、この年の周航は、雄松(近江舞子) - 今津 - 彦根 - 長命寺(近江八幡)に宿泊する4泊5日の旅程であった[3]。小口が1917年6月28日に今津から三高の寮の友人にあてたはがきが残っている[2][5][注釈 2]。
今津の宿で、小口は「今日ボートを漕ぎながらこんな詩を作った」と仲間に披露した[3][5]。部員の中安治郎が「小口がこんな歌を作った」と仲間に紹介したともいう[2]。小口の詩を、当時三高生の間で流行していた歌「ひつじぐさ」のメロディに当てて歌うとよく合ったため合唱し、これが定着することとなった[2][3]。
なお、今津の宿で披露された歌詞にはその後補足が加えられており[2][3]、現在見られる6番までの全歌詞は翌1918年(大正7年)夏までに完成した[2][3]。その後、三高の寮歌・学生歌として広まっていった。
レコードの発売[編集]
レコードの初版は1933年(昭和8年)にタイヘイレコードから発売された「第三高等学校自由寮生徒」の歌唱によるもの(品番:4580B)である[注釈 3]。
第二次世界大戦後は歌謡曲(ポピュラー音楽)として多くの歌手に歌われた。1961年(昭和36年)にボニージャックスが吹き込んだのを皮切りに[3]、ペギー葉山[3]や小林旭[3]、フランク永井[3]、都はるみ[3]、渡哲也[3]、倍賞千恵子[3]など、60組以上(1999年時点)[6]の歌手がカバーしている。中でも1971年(昭和46年)に加藤登紀子がカバーしたレコードは70万枚の大ヒットになった[6][3]。
作詞者・作曲者の探求[編集]
戦前・戦後にかけて流行歌となったこの歌であるが、1971年(昭和46年)のヒットの頃まで、作詞者小口は名前のみ伝わったものの人物像は不明となり、作曲者については忘れ去られた状況となっていた。この頃の歌集などでは、作詞・作曲者を「小口太郎」または「三高ボート部」とする表記が使われていた[2]。
その後、作詞者・作曲者について、飯田忠義(NHKアナウンサー[7])ら研究者による調査が進められた。飯田は当時の水上部クルーからの聞き取りを行い、歌の誕生の過程を浮かび上がらせた[5]。1979年(昭和54年)には、曲が「ひつじぐさ」のメロディーを転用したもので作曲者の名が吉田千秋であることが判明するものの、身元や人物像は依然として不明なまま残った[2][3]。進展が見られるのは1993年(平成5年)、今津文化会館で開催された「琵琶湖周航の歌開示75周年記念イベント」に際してである[2]。吉田が東京から新潟県に転居していることが判明したことから新潟県の地元紙に調査を依頼、『新潟日報』6月11日夕刊に掲載された記事が地元の吉田東伍研究者の目に留まり[3]、吉田の人物像が判明した[2]。
小口と吉田は、大正時代にともに20代で早世している。互いに面識はないままであった。
小口太郎[編集]
詳細は「小口太郎」を参照
小口太郎(1897年(明治30年)8月30日 - 1924年(大正13年)5月16日[3])は、長野県諏訪郡湊村(現在の岡谷市)出身。作詞時は三高2年生で19歳[3]。三高卒業後は東京帝国大学に進学した。26歳で永眠[2][3]。
吉田千秋[編集]
吉田千秋(1895年(明治28年)2月18日 - 1919年(大正8年)2月24日[3])は、新潟県(現在の新津市)出身[2]。『大日本地名辞書』を著した歴史地理学者吉田東伍の次男であった。1916年(大正4年)に雑誌『音楽界』8月号に発表したのが「ひつじぐさ」であった[3]。
吉田は肺結核を患っており、24歳で永眠した[2][3]。吉田についての資料は吉田文庫(新潟市秋葉区)に所蔵されている[7]。
「琵琶湖周航の歌」は口伝えで継承されてきたため、現在知られているメロディは原曲の「ひつじぐさ」とはかなり異なっている[注釈 4]。
なお、ヒツジグサはスイレン科の水生多年草で、日本国内に広く分布しており、今津でも見られる。小口太郎が今津で投函した手紙の中でも言及がある[9]。今津では「琵琶湖周航の歌」ゆかりの草として、また水環境保護のシンボルとして扱われている[