茂左衛門

群馬県人ならだれでもわかる上毛かるた

1662年に沼田藩主となった真田信利のもと、沼田領では1680年に大飢饉が発生し、農民は藩主の悪政に苦しめられます。翌年杉木茂左衛門は、農民のため直訴を決意し大老境忠清を訪ねますが門前払いにあいます。そこで茂左衛門は知恵をめぐらし、輪王寺の紋がついた箱に訴状を入れ、わざと茶屋に置き忘れます。茶屋の主人はその訴状を将軍徳川綱吉に届け、藩主真田信利は改易となります。当時、直訴は大罪で茂左衛門は妻子とともに磔になります。その後村人は千日堂を建立し茂左衛門を祀りました。縁日が春は春分の日、秋は秋分の日にあり、たくさんの屋台が出て子供たちが近隣からたくさん集まります。中心となるのは小学生で、半日くらい屋台で焼きそばを食べたり、くじを引いたりして過ごします。

私が中学校2年生のことです。その頃になるともう茂左衛門の縁日は卒業し,行かなくなりますが、弟は小学校3年生、茂左衛門の縁日に遊びたい盛りで、仲間とともに朝から出かけていました。私がくつろいでいると母が突然言い出します。「博(仮名)が心配だから見てきてくれ」そういうのです。面倒なので大丈夫と言いましたが、母は何度も「見てきてくれ」と言い張ります。根負けして2つ先の駅まで行きましたが、そこで「どうやって探すんだ?」ようやく気がつきます。見つけることはできないだろうと思いながら駅を出ると、弟がショボンとしてベンチに座っています。何だこの奇跡はと思いながら歩み寄ると「兄ちゃん!よかった!帰りの電車賃がねぇ・・・・」なんと楽しさのあまり帰りの電車賃まで使ってしまったとのこと。友達に借りたくても、だれも余分に持ってないとのことで母の心配は見事に当たっていました。お金を渡し、今度は帰りの切符をしっかり買わせます。しかし、残りを握りしめ、脱兎のごとく、再度縁日に消えて行きました。幸いにもその後はなにもなく、無事に家に帰ってきた弟ですが、母に散々絞られて涙目で、挙句の果てには、衛生状態の悪い屋台の焼そばにあたり、その夜は苦しんでいました。