運送会社時代 その3

運送会社時代のトラックの写真3

コンクリートパイルを積んだトラック私が勤め始めてから、しだいに運転手が稼げない時代に入っていきます。過積載の取り締まりが厳しくなっていったのと、荷主の度重なる値引きによるものです。昭和50年代後半のころは、その傾向が顕著になってきたころで、昔堅気の運転手がだんだんと減っていく時代でもありました。
会社に「Hさん」と呼ばれる運転手がいました。当時既に60歳代、奥さんを助手席に乗せてダンプやら平ボデーを運転していました。何かと器用な人で仕事で使うワイヤーなどを器用に編みあげたり、予備のタイヤを組みあげたり、何かと重宝していました。

私は事務方で、主に経理関係を担当していましたので、何か購入するときは私を通します。Hさんには、なにかと「ワイヤーがないから頼んでくれ」とか「軽油がそろそろないよ」催促されたものです。
Hさんは大変ギャンブル好きで、給料が入ると桐生競艇や高崎競馬、そして伊勢崎オートなどに入り浸ります。そしてほとんどの場合、給料をすってしまいます。桐生競艇では競艇の池に飛び込んで自殺未遂となったこともありました。

桐生競艇

何年かしてHさんは、会社を辞め近くの別の運送会社に入ります。Hさんが辞めてから、大きく変わったことがありました。毎月の軽油代が極端に減ったこと。消耗品代が極端に減ったことです。その理由はやがて判明します。ある日私は運転手として4トン車を運転し、運転手がよく立ち寄る食堂で昼ごはんを食べていた時のこと、とある一人親方の運転手に声を掛けられます。「金里運送さんですか?あのトラックの人ですよね?」

「そうですが・・・」

「運転手さんですか?見かけない方ですが・・・」

「いつもは事務所で仕事してます」

「そうですか。管理職さんですか。それならちょうどよかった!じつはあらためてお礼を言わせてください。わたしは一人親方の運転手で、平ボデーでパイルを運ぶことになったんですが、おたくのHさんから、お宅の会社で使わないアルミの足を安く譲ってもらって大変助かったんですよ。ありがとうございました」

一人親方の運転手とは自営業者です。アルミの足とは、パイルを下ろす時に使う梯子の様なものです。1本7万円します。そして2本で14万円。さらにその運転手が言うことにはワイヤー、荷締め機、そのた消耗品も安価で譲ってもらったそうです。会社から売ってくれと言われたそうで・・・・

経費が浮くようになったのがわかりました。すべてHさんが横流しをしていたのです。その運転手が手にしたものは、会社のガレージから盗まれたと思っていたものでした。さらに悪事が暴かれます。その運転手が言うことには軽油もドラム缶でどこかに売っていたらしいとのこと。

結局、Hさんの悪事はうやむやのまま時が過ぎていき、そのまま会社を辞めています。

何年か経ち、Hさんは鬱がひどくなって高崎線に飛び込み、亡くなります。大胆に物は盗んでも、気の小さな人だったようです。

ギャンブルさえやらなければ・・・・給料はたくさん稼いでいたのにねぇ・・・・・

高崎線