高崎―渋川間のチンチン電車その1
昨日、私の従兄弟が店に来てくれました。わたしより幾つか上で、母方の従兄弟です。
「ブログ、しばらく更新してないから具合でも悪いかと思ったよ」
気がつけば、そう思われても仕方ないほど更新していませんでした。好評の「父と嫁」シリーズや「熱が出た」シリーズはネタが尽きてきたこともありますが、おかげさまで、仕事に振り回されていたのが実情です。
「そのうち、俺のことも書いてくれるかと思ってたんだ」
従兄弟たちのことは、いずれシリーズ化しなければと思っています。なにしろ父も母も兄弟が多く、つれあいまで含めると、私の従兄弟は70人はいますので・・・・
従兄弟たちのことは次回以降にして、今回は高崎と渋川の間には「チンチン電車」が走っていた!です。
母には、「電車に乗って、この歯医者に来ていた」と、現在の渋川から高崎に抜ける県道を通るたびに聞かされていました。
「線路もなんにもねーじゃねーか・・」
子供の私は半信半疑でした。
しかし、多少のずれはあると思いますが、現在の高崎渋川線の県道に近いところだったようです。
この高崎―渋川間のチンチン電車の礎を築いたのは、群馬鉄道馬車会社といいます。明治25年(1892)に横川―軽井沢間にアプト式鉄道が敷設されると、それまでその区間を運転していた「馬車鉄道」が廃止されます。それを高崎の須藤清七ほか12名が購入し、馬車鉄道敷設の特許を取得、群馬鉄道馬車会社を創立し、翌年には高崎駅前より渋川長塚町までの旅客と貨物の運転営業を始めます。
「馬車鉄道」というのは、鉄線路上を馬が引く鉄車輪の車両で運行する鉄道です。鉄線路上を走ることで、通常の馬車より早く、乗り心地も良かったそうです。
明治35年(1902)の運行状況は、1日14往復、終点までの所要時間は2時間15分。主な停留所は渋川より有馬、北下、金古、三ツ寺、飯塚、高崎。料金は一区5銭5厘(現在の1100円くらい)全区33銭でした。結構主要な交通機関だったようです。
明治41年(1908)になると高崎―渋川間の路線は、高崎水力電気㈱が継承します。そして、明治43年(1910)に「1府14県産業共進会(産業見本市)」の開催にあわせて電気軌道に転換し、チンチン電車が運行することになりました。関東地方では、東京、横浜、小田原、江ノ島、川越、日光などに次いで九番目の電車となりました。
また、明治42年12月には伊香保電気㈱が設立され、渋川から伊香保温泉まで連絡するようになりました。京浜地方の客も高崎駅からこの電車を利用して伊香保に便利に行けるようになり乗客が増加。電車は60ポンドの軌道に改良され、高崎―渋川間は1時間ほどで到着するようになりました。
結構早いですね。
(以上高崎新聞の高崎アーカイブを参考、引用してます)
なんと伊香保までチンチン電車が走っていた!
その後、「チンチン電車」は最終的には東武鉄道に引き継がれ高崎-渋川間の路線が廃止されたのは昭和28年7月1日です。続きは次回に・・・
東武鉄道は新潟までの計画もあった! 東武東上線の名前の由来!等々書いてみます。