渋沢栄一と中瀬

2024年に新しい1万円札の肖像が渋沢栄一になります。そして、NHKの大河ドラマでは吉沢亮主演で「青天を衝け」が放送されています。今、渋沢栄一はちょっとしたブームになっています。そんなブームにあやかって同じNHKの「ブラタモリ」では、先日、深谷を取り上げました。渋沢栄一を生んだ町です。

渋沢栄一は現在の深谷市血洗島に1840年に生まれます。渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける富農だったそうで、原料の買い入れから製造、販売までを担い常に算盤をはじく商人的な面を持っていました。栄一も、父と共に、信州や上州まで製品の藍玉を売り歩くほか、原料の藍葉の仕入れ調達にも携わっていました。14歳のころからは単身で藍葉の仕入れにも出かけていたようです。

渋沢栄一が生まれ育った血洗島に程近く、中瀬という場所があります。江戸時代には船の物資運搬の拠点として栄えた町です。「ブラタモリ」でも詳しく取り上げられた中瀬ですが、なぜ物資運搬の拠点になったというと、もとは「浅間の大噴火」だそうで、浅間の噴火による土石流は遠く浅間山から嬬恋村、渋川市、前橋市を通過し、この深谷市の中瀬の手前で止まります。中瀬から北の利根川はそのために浅い川となります。江戸から大型の船で運ばれた物資は、中瀬で小型の船に乗せ換えられ運ばれるようになります。その中継点として中瀬は誕生しました。そして、この辺りには浅間山の噴火による栗石が多く、この石を江戸城の石垣に利用するために此処から船で運んだのが船運の始まりで、寛永(かんえい)18年(1641年)江戸川開削で江戸と利根川が結ばれ、正徳(しょうとく)2年(1712年)には江戸城紅葉山御殿の材木を、中瀬の問屋が秩父から買い付け、中瀬から送って以降急速に発展したようです。その後、中山道筋の宿場や秩父方面からも荷物が集まります。主な出荷品は廻米、藍、材木、木炭、生糸などで、江戸からは塩、醤油、干鰯(ほしか)、瀬戸物、お茶等が運ばれました。そのため、江戸時代の中瀬は問屋、旅籠、茶屋、質屋、料理屋、鍛冶屋、菓子屋、髪結等が並び、船が着くと酒の肴などを仕込んだ「煮売船(にうりぶね)」、風呂を積んだ「湯船(ゆぶね)」なども寄って来て大変賑やかだったようです。このように物資が集まる場所には多くの人が集まり、情報も集まります。渋沢栄一はこの中瀬で中央の最新情報を得ていたようで、「ブラタモリ」でもそのように結んでいます。

今の血洗島付近は、葱畑しかないような場所で、当時のにぎわいも感じられませんが、今の日本を築いた一人を生んだ場所には、それなりの歴史があります。今度ゆっくりと中瀬のあたりを歩いてみたいと思っています。